艇王・植木通彦の成し遂げた偉業や現在の活動、裏話エピソードまとめて紹介!

艇王、不死鳥などと呼ばれたボートレース界のレジェンドの1人、植木通彦の情報まとめ!
プロフィールから、彼が成し遂げた偉業、競艇ファン必見の死闘、エピソードなどを紹介します。
競艇ファンなら絶対に知っておくべき植木通彦をここで学びましょう!
目次
植木通彦のプロフィール

植木通彦(うえき みちひこ)さんは1986年~2007年の約21年間ボートレーサーとして活動しており、輝かしい成績を残している元選手です。
2007年に引退されているため、最近競艇を始めた方はご存知ないかもしれませんが、「艇王」とも呼ばれたボートレース界のレジェンドのためこれを機会に植木さんのことを詳しく知っちゃいましょう!
この記事を見ればあなたも一人前の植木ファンです!
まずは簡単なプロフィールを見てみましょう。
- 【所属】福岡支部
- 【登録番号】3285
- 【登録期】59期
- 【出身地】福岡県
- 【生年月日】1968年4月26日
- 【身長】165cm
- 【体重】51kg
- 【血液型】O型
植木さんは子供の頃からお父さんに連れられ地元の競艇場によく行っていたそうです。
しかしその頃には自分が競艇選手になるとはまさか思いもしていなかったようですね。
「どこかの会社に就職するだろうな」となんとなく思っていたところに、父親の会社がうまく立ち行かなくなり、マイホームを購入するという家族の夢も無くなってしまうという経験がありました。
そこで自分がなんとかしてあげたいという想いで、競艇選手になれば親孝行ができるのではないか、という気持ちで競艇選手になったとのことでした。
プロデビューしてからは次々と輝かしい功績を残し続けた植木さんの経歴・成績をみてみましょう!
きっかけが親孝行って、親思いの優しい青年だったんだな!
経歴や成績はどうなの?
植木さんがデビューしてからの大まかな経歴は以下の通りです。
- 【1986年11月21日】59期生としてボートレース福岡でデビュー
- 【1993年3月18日】ボートレースクラシック(戸田)でSG初制覇
- 【1994年】初の年間賞金王となる
- 【1995年】賞金王決定戦にて歴史に紡がれる中道善博 元選手との死闘が行われる
- 【1996年】公営競技の選手として初の年間獲得賞金2億円を突破
- 【2006年】通算1,500勝を達成
- 【2007年7月18日】引退
植木さんはデビュー後の約7年後、1993年の当時25歳でSGを初制覇します!
同じ福岡の先輩・清水克一 元選手と熾烈な争いを繰り広げながらも、この時あまり主流ではなかったモンキーターンを活用して勝利を収めました。
25歳のときに若くしてこんな偉業を達成されたのは素晴らしいですね!
モンキーターンの誕生秘話に関しては、後ほどエピソードとして紹介します。
ここから破竹の勢いで、翌年・1994年に賞金王決定戦(今でいうグランプリ)の優勝を逃すも、年間賞金王に輝き、1995年には前年度の借りを返すかの如く、賞金王決定戦で見事優勝を飾りました。
今でも語り継がれるような、その時の中道さんとの激しい死闘が以下の動画です。
第1Mでは5号艇から2コースに前付けした植木さんがまくりを狙いますが、1号艇で1コースの中道さんにはわずかに届かず。
しかし第2Mで植木さんが差しを決めて1位に躍り出るも、また中道さんに追い抜かれ、とボートレースではなかなか見ない激しい抜かし合いが見られるレースです。
これは今見ても心躍るようなレースなので、一度は見てみてくださいね!
そして2007年に引退されましたが、その時の通算成績は以下の通りです。
- 通算成績:4500戦1562勝
- 通算勝率:7.58
- 通算優勝:74回
- SG優勝:10回
- GI優勝:23回
- 生涯獲得賞金:22億6186万7369(現在5位)
通算4500戦もして、勝率を7.58%にとどめられるのは本当にすごいとしか言いようがないですね!
それに生涯獲得賞金が22億って…いつみてもよだれが出るような数字です…!
そして現役年数は20年程度と、トップ選手の中では長かったわけではないですが、それでもここまでの成績を残しているのは大変素晴らしいことです。
これは「艇王」と呼ばれてもおかしくないレベルの選手だな!
植木通彦がわかるエピソード集!
プロペラに巻き込まれ75針を縫う事故
先述したように、植木選手はプロデビューをしてから順調にレースで結果を残してきました。
しかし、当時成績が上がることで楽しくてしょうがなかった植木さんは、危険に対する意識がどんどん薄れていたとのことです。
そこで、大事故が起こりました。
1989年、桐生競艇場のレースでまくろうとした時に他のボートの航路を邪魔する形になり、バランスを崩し転覆をしてしまいました。
その結果、後続艇のプロペラに顔面が直撃し、緊急手術で75針縫ったとのことです。
これは競艇界に残る大事故の一つだな…命と隣り合わせのスポーツだ。

その後、状態が完治した時に桐生から出場の斡旋がありましたが、植木さんはそれをパスしようとしました。
事故の後の復帰戦でトラウマがある同じ会場は避けるのが普通です。
しかし、父親が「桐生から走ったらどうか」と言われたとのこと。
これに対し植木さんは「確かに逃げるのは嫌だ」「怪我をした時に桐生の人にお世話になった」という理由でお礼の意味も込めて桐生を復帰戦にしたのです!
これらの経緯から、植木さんには「不死鳥」の異名が与えられるようになりました。
本栖研修所で鍛えられた1年間

植木さんが本栖研修所(現・やまと学校の前身)に入ってからは、毎日の早朝6時から就寝の夜10時までびっしりのスケジュールが入っていました。
しかし、「目標を達成するためには、まず訓練を普通に受けないといけない」と思っていたため、「めんどうくさい」「もうダメだ」「嫌だ」など弱音を吐くことはなかったそうです。

しかし、苦手だったことはあり、それはモーター整備だったそうです!
手先が不器用でよく手を切ってしまい、血まみれになっていたとのこと。
それでも懸命に取り組んでいたものの、プロレーサーになっても整備はずっと苦手だったようです。
そのためモーターの部品を変える整備、というよりは与えられたモーターを少し調整することを重点的に行っていたようですね!
目標をしっかり定めていたため、辛いことも「ただの通過点に過ぎない」と思えたようだ
モンキーターンが生まれた秘話

ボートレースは本来正座に近い形で座りターンをしますが、モンキーターンという腰を上げてターンを行う技術を世に知らしめたのが植木さんでした!
1993年にSG「総理大臣杯」で初優勝を飾ったときに、植木さんがモンキーターンを行ったことで、植木さんが生みの親とされている場合もあります。
しかし、実はそのころに同じ世代のレーサーはモンキーターンをやり始めていました。
植木さんによるとモンキーターンの創始者は、先輩である飯田加一 元選手だったとのこと。

飯田さんは1973年にデビューし、2012年に引退された選手で、植木さんの13年ほど先輩です。
モンキーターンはウインドサーフィンのレースにおける選手のテクニックからヒントを得たものでした。
競艇界ではなかなかいない大卒であり、歌手としてCDを多数出していたり、プロ顔負けの水墨画を書いて個展を開いたりと、多才な方でしたが、2016年に亡くなっています。
飯田さんがいなかったら、今のボートレースにモンキーターンはあったのだろうか?
植木通彦の引退後の活動
現在は一般財団法人BOAT RACE振興会ボートレースアンバサダーを務めている植木さん。
ボートレースアンバサダーとは、ボートレースのイメージアップのために、その魅力をより多くの人々に発信する役割です!
加えて、スターレーサーとして輝かしい実績を残した選手のセカンドキャリアを応援する取り組みも行っています。
引退後の活動は以下のようなことに取り組んでいました。
- 【2008年4月~】モーターボート競走会の理事職に就き、やまと学校を担当
- 【2012年4月~】同会 やまと学校校長 担当
- 【2017年4月~】同会 特命 担当
- 【2018年6月~】BOATRACE振興会のボートレースアンバサダーに就任

現在ボートレースアンバサダーとしては主に、様々なTV・ネット番組に出演して実況や解説をされています。
競艇関係者のため、舟券の予想や直接的なレース結果予想を話すことは禁じられているものの、展開を推理して、その読みが鋭いことから視聴者からは好評を得ているようですね!
YouTubeにも植木さんが出演している番組は多数あるぞ!
まとめ:植木通彦はレジェンドとしての活躍を経て、現在も競艇の盛り上げに貢献している!
植木通彦 元選手はレーサー時代には公営競技として初の年間獲得賞金2億円を達成したり、今となっては当たり前のモンキーターンを世に知らしめたりと、様々な業績を競艇界に残しました。
しかし、そこにとどまらず、引退後もやまと学校の校長を務めたり、ボートレースアンバサダーとしてTV・ネット番組に出演したり、若い子たちに競艇の良さを広める活動をしています。
今後もまだまだ元気に活躍してほしいですね!
引退後も精力的に競艇の盛り上げに貢献するとは、本当に競艇が好きなんだな!

- ふみきりくん
- 根は真面目でギャンブルなんてやったことない人生だったが、知り合いに競艇を勧められて一気にどハマりした。
一攫千金を夢見て、日々競艇を勉強する毎日!
今はもうお金しか見えていない。